「アラクノフォビア(蜘蛛恐怖症)の一例」
ギターを見ながらギターってかっこいいと思いました。
そのあと飾ってある人形を見て、かわいいと思いました。
善と悪
美と醜
生と死
光と闇
幼い頃、靴を履いたら何か違和感がありました。急いで靴を脱いでみると中で大きな蜘蛛が潰れていました。
その日の夜、布団の中で、彼はその踏みつぶしてしまった蜘蛛が自分を恨んでいるイメージを膨らませました。蜘蛛のオバケに怯えていたのでした。
自分が生き物を殺したと自分でしっかり認識したのは、初めてのことでした。
彼は自分がやってしまったことを「悪」だと判断しました。悪い事をすると地獄に落ちるというおとぎ話に出てくる「悪」です。彼は崩れてしまった善と悪のバランスを取り戻すために罪を償わなくてはならないと考えました。彼の世界にはすでに、 生と死の判断があり、自分と自分でないものとの判断があり、善いことと悪いことの判断がありました。実はそのどれもが、とてもあいまいなものであって、実体のない「言葉のイメージ」でしかないのですが、彼は幼いながら、それらの覚えたての言葉を使って世界観念を創っていました。そして、その世界のバランスを守り、自分という心の存在を平和に維持するために、言葉を使って心を整理することを覚え始めていました。
彼は悪いことをしたら「ごめんなさい」と謝って、相手に「いいよ」と許してもらえれば罪は消えるという魔法を信じていましたが、死んだ蜘蛛に謝るにはどうすればいいのかわかりません。彼の知っているどの言葉を組み合わせてみても、崩れてしまった心のバランスを修正することは出来ませんでした。
彼はその気持ち悪い状態から逃れたくて、無意識に少しずつその記憶を心の奥底深くに沈めてゆきました。巧妙に事は運び、やがて潰してしまった蜘蛛のことを思い出すことも無くなりました。そして季節が変わる頃にはすっかり忘れてしまいました。
嫌な記憶とそれに伴う罪悪感を意識から消すことは出来ましたが、それからというもの、彼は蜘蛛を見かけるたび、悪魔のように怒り狂った蜘蛛のイメージが反射的に心に浮かぶようになりました。そしてその度にパニックに陥ってしまうようになりました。
彼が無意識にとった「なかった事にする」という判断によって潜在意識の深くに押し込められた「蜘蛛を殺した」という強烈な記憶とそれに伴う罪悪感は意識下で渦巻き続け、その罪悪感を苗床にして生じた蜘蛛に対する畏敬の念は「蜘蛛は怖くて不気味な生き物」という概念に姿を変えて、彼の世界観念を形成する要素のひとつとして組み込まれたのでした。
それから月日は流れ、二十歳を過ぎた頃、草原の中で蜘蛛を手に乗せて「すごいきれいだよ」と言って微笑んでいる人の隣に彼は座っていました。
彼はこれまで生きて来て、蜘蛛をきれいだと思ったことなど無かったし、その時も実は怯えていましたが、そんなことを言う人と出会ったことが無かったので、そのことに興味を持ちました。
「不気味なものをすごくきれいって言うなんて、この人は少しおかしい」と彼は思いました。
しかし、その人は花も木も空も歌も好きで、それは彼と同じでした。その人が蜘蛛をじっと見ている顔をじっと見ていると、ふと、自分の中に、蜘蛛を気持ち悪いと思い込んでいる自分がいることに気付きました。
その人は花を見つめるのと同じように手のひらの蜘蛛を見つめていました。
彼は眩しい日の射すお花畑の中くるくる回る蜘蛛関連のフラッシュバックの彼方に蜘蛛をふみ潰してしまった幼い頃の彼をみつけました。
幼い彼は罪悪感に打ちのめされていますが、今の彼から見ると幼い彼に罪はないことがわかります。起こってしまった事実に対して、本当は、言葉を使って釈明する必要も、曖昧な観念で作り上げたストーリーに酔って罪悪感を抱き続ける必要もないのです。
蜘蛛を踏み潰してしまって1人泣いている幼い彼に彼は静かに寄り添いました。どんな言葉をかければいいのかわかりませんでしたが、2人にとってはそれで十分でした。
今でも蜘蛛は苦手ですが、それ以来、わけもわからず恐怖し、パニックに陥ることはなくなりました。次第に、あの人が言っていた「きれい」という感じもわかるようになってきました。恐怖せずによく見てみると蜘蛛には、きれいなやつや、かっこいいやつや、かわいいやつなどもいます。そしてそれはとても嬉しいことなのでした。
ふとした気づきによって視点が変化し、観念の呪縛が解けたことは他にもあります。ピーマンが食べれるようになったり、タマネギが食べれるようになったりしたのも、ふとしたきっかけで視点が変化したからでした。そして、いつもそんな時はとても楽しい時です。それが起こるのは、無理矢理食べようとした時ではなく、リラックスして安心しているとき、とても愉快なとき、とても幸せな時、心がふさふさっている時にふと起こるのです。
P.S
蜘蛛の例のように、視点の変化によって醜いと思っていたものを美しいと思えるようなることもあれば、またその逆もあります。どちらが望ましいかといえば、美しいと感じるものが増える方が自身の心にとって明らかに良いことのように思いますが、視点が変化し対象を多角的に捉えることで、観念による判断の曖昧さに気づき(観念による判断には正解がありません。人の数だけ世界観が存在するからです。僕が醜いと思うものを、誰かは美しいと思うことが出来ます。そして、どちらも当人にとっては真実です。みんな生まれ落ちてからずっと心が描き続けてきた、それぞれの空想(観念)のなかで生きています)何重もの観念のフィルターがいくらか薄れて行き、対象の実体がよりハッキリ見えてくるという点において、どちらの変化にも優劣はないです。観念を完全に取りはらって、そこに在るものを素直に見るなら「在る」という事実のみが感じられます。対象の意味付けを取りはらった「在る」は神秘です。それは究極の知性です。そして「在る」と感じている自らが在るからこそすべての存在が「在る」のだと感じます。すべてはたったひとつの「在る」に帰結するよ。
(^と^)☆